海賊になれないひとのために

  時々、生きる意味みたいなことを考える日がある。それはたとえば二日酔いのひどい月曜日だったり、あるいは自分の仕事を真剣に見つめ直す火曜日の午後だったりする。

 

  つまりこんな辛い通勤をして、やってる仕事がこれか、という憂鬱にも近いのかもしれない。

 

  なんといっても俺の仕事の下らなさは一流だ。今日も上司との打ち合わせ(といえば仕事のようだが、世の多くの打ち合わせがそうであるように、単なる悩み相談)で、下らない話ばかりしていた。PBOだのIFRSだの横文字が並ぶ打ち合わせ。始まって5分で飽きた。が、真剣に相手の目を見て傾聴しているふりをする。結果、この打ち合わせで俺が得た知見は「この人はまつ毛に白髪がある」ということだけだった。

 

  打ち合わせは、「この人の母親が一重で父親が二重の場合、その息子の一重まぶたから白髪のまつ毛が生える可能性はいくらか」と俺が考え始めるまで、たっぷり30分続いた。打ち合わせの終わりにはいつもそうするように、

「何でも協力するので言ってくださいね」

と声を掛けた。すると、

「じゃあお願いだからあまり噛みつかないで下さい」

と言われた。

 

 

  生きることとは、畢竟、何なのだろう。

  金を稼いだところで死ねばそれまで。あとたったの50年くらいを金を稼いで贅沢をしたとして、それが何になるのか。贅沢にすら人は飽きるというのに。

  子どもを持ったところで、死ぬときはひとり。俺の親父は死ぬ前、入院先の病院が1ヶ月間「インフルエンザ流行のため」とかいう有難い理由で面会禁止だったので、ずっとひとりで死を待っていた。

 

  考える。考えても答えがない。でもこういうことを考えなくても済む方法はある。タイあたりで海賊になることだ。それは俺のここ2年間くらいの夢だ。「ワンピース」も3冊くらいは飽きずに読めたし、「ブラック・ラグーン」も全巻読んでそれっぽいスラングも覚えた。海賊の素質はあると自負している。

 

「反省してまーす」

と言って、スノボも出来ないのに心の中で「ちっ、うるせぇな」と続けた。でも心の中で「ちっ」と言うのはおかしいので、舌打ちだけはしておいた。これがいけないのだろう。

 

  帰りの満員電車の中で、並ぶ人の顔を見て考える。この人たち一人一人に必ず訪れる最期のとき。それはどんなものなのだろう。明日かもしれないし今日かもしれないのだ。何千回も何万回も通夜やら葬儀やらが行われ、そうして地球は回り、時代は巡る。このとてつもなく大きなうねりの中で、たったひとりの100年程度、適当に過ごしたって構わないし、あってもなくても同じようなものなのだろうと思う。

 

  今日も俺はこれから帰って酒を飲む。酒を飲んだところで朝はやってくるし、やがて酔いも醒める。分かっていてもそうする。一瞬の慰めのうちに永遠を見たいからだ。