天音しおんを俺は好きである

 俺の知人が女優をやっていて、時々その舞台を観に行くことがある。今夜も仕事をジェンガのように積み上げて定時でさっさと帰り、舞台へ足を運んだ。

 この知人というのは、売れてるか売れていないかといったら、売れていないのだろうと思う。いや、売れてるってどれくらいからよ?と聞かれても困る。上原亜衣は間違いなく売れてるだろうけれど、天音しおんはどうだ、と聞かれても答えに窮する。それと一緒だ。天音しおんはニッチなジャンルの巨頭である。俺の知人もまた、同じようなものだ。

 

 

 会場は町の外れの場末のバー。

 カウンターの席に腰を下ろして、周りの客を見遣る。色んな顔がある。まだ若い学生から、俺のようにくたびれたオッサン、一目でバーテンダーだと分かる顔もいくつかあった。それがバーテンダーの顔だと分かるのは、俺が彼らからストラスアイラを注いでもらった経験があったから。

 そういう、色んな人たちはすべて、その知人の交友関係の範囲内にいた。間違っても、「テレビでCMを見てきました!」というような人はいない。だから、今日の客を見れば、その知人がこれまでに、どういう交友関係を築いてきたかが分かった。

 

 たとえばあれだ。舞台の目の前で、露出度の高いひらひらしたハレンチな服を着ている女性の一団は、女優業の付き合いだろう。是非お近付きになりたい。

 その手前、少し落ち着いた物腰で音楽の話をしている高貴そうな方々は、大学時代の同級生といったところか。是非お近付きになりたい。

 カウンター席の端。まだ開演まで時間があるというのにウイスキーをあおっているオッサン。どっかのバーで知り合ったエロ親父だろう。いつまでも元気でいてくれ。

 

 そうやって知人の半生を勝手に想像しながら、ぬるいビールを一息に飲み干す。そして「これは何かに似ているぞ」と考える。つい最近、同じような経験をした覚えがある、と。

 

 考えた時間は、そう長くなかった。これは、葬儀のそれだ。集まった周りの人たちから、主人公の生涯を省みる。そうして酒を飲むのだ。白黒の鯨幕を眺めながら。

 

 そう考えて、即座にその考えを打ち消した。

 公演会場をみて葬儀の場を連想するとはひどく失礼な話だ。それよりももっと楽しいことを考えねばならない。たとえばそう、あのヒラヒラしたハレンチな服を着た女性たちとお近付きになる方法。

 ウイスキーグラス片手に、「やぁ、君たちも彼女を観に来たのかい?」とアプローチする。そして「これは僕の推理だが、君たちは女優だね?」と聞くのだ。これがもしも外れていれば、「とっても綺麗だから間違えたよ」とでも言っておけば良いし、当たっていれば「簡単なことだよワトスン君」と言っておけば良い。俺の知ってる探偵小説では、こんな感じで女は落ちていた。だからこれでいけるはずだ。

 

 自らの行動に確信を持ち、その行動を実行しようとカウンター席から立ちかけたところで、その女性の一団のもとに男どもがやってきた。どうも、俳優らしい。整った顔をしてやがる。なんてやつらだ。こんな男と一緒に来るなんて、この女たちもロクでもない女に違いない。

 

 憤然として、元の席に腰を戻す。天井近くに据えられたテレビでは、多くの場末のバーがそうであるように、白黒のアメリカのテレビプログラムがローリングストーンズだかカーペンターズを流していた。バックバーを照らすランプは時折、明滅する。まるで幻のように手元のグラスが光を帯びて、消える。

 この舞台はいつはじまるのだろう。